2009年7月15日

クロード・モネの生涯

アルジャントゥイユからジヴェルニーへ
1878年には6年ほど暮らしたアルジャントゥイユを離れ、半年ほどのパリ暮らしを経て、同年8月末、セーヌの50kmほど下流にある小さな村ヴェトゥイユに移転。1881年12月にはヴェトゥイユよりはパリ寄りのポワシーに移っている。この間、モネの家庭生活には大きな変化があった。モネのパトロンにエルネスト・オシュデという人物がいたが、彼は破産し、債権者から逃れるため、5人の子どもと身ごもった妻とを残してフランス国外へ逃亡したのであった。1878年、モネはエルネストの妻アリス・オシュデと6人の子ども(1人は生まれたばかり)を引き取って共に暮らすことになった。モネの妻カミーユには1878年3月に2人目の子であるミシェルが生まれたばかりで、モネは合計10人の家族を養っていくことになった。そのカミーユは前述のとおり、1879年9月に病死している。

こうした中、1880年には10年ぶり、かつ最後のサロン出品を行い、1点が入選、1点が落選した。印象派展には、1880年から1886年にかけて開催された第5回から第8回展のうち、1882年春の第7回展のみに出品している。

1883年4月、モネはパリの西約80kmの郊外にあるジヴェルニーに移転。以後、1926年に没するまでこの地で制作を続けた。モネはジヴェルニーに睡蓮の池を中心とした「水の庭」、さまざまな色彩の花を植えた「花の庭」を造った。パリ郊外の観光名所として多くの人が訪れるこの庭自体が、自分の「最高傑作」だとモネ自身が言っていたという。モネがジヴェルニーのアトリエでもっぱら『睡蓮』の連作に取り組むようになるのは後のことで、1880年代にはフランス各地に頻繁に旅行して制作していた。1883年12月には北イタリアのリヴィエラを初めて訪問。1886年9月 - 11月にはノルマンディーの小さな島・ベリールに滞在し、断崖の多い海の景色を、異なった天候や光のもとで繰り返し描いた。

1914年頃から制作を再開。縦1メートル、横2メートル、あるいはそれ以上の大キャンヴァスにもっぱら描くようになる。視力が悪くても、大画面に描き、遠くから眺めれば何とか制作できることがわかったからである。1922年には片目は強い光が分かる程度、もう一方の目の視力も極度に落ち、1923年には3回にわたって眼科の手術を受けた。最晩年の「日本の橋」や「バラの小道」をテーマとした作品群はほとんど抽象に近づいている。

パリのオランジュリー美術館の2部屋を占める『睡蓮』の大壁画は、1918年、モネの友人でもあったジョルジュ・クレマンソー(首相経験者)を通じて、モネが国家に寄付を申し出たものである。この『睡蓮』の展示にあたっては(1)『睡蓮』の部屋には他の作品を展示しない、(2)作品と観客との間に仕切りやガラスなどを設置しない、などモネ自身によって厳しい条件が付けられている。モネが1923年にしぶしぶ白内障の手術を受けたのは、この大作を完成させるためだったという。作品の出来に満足していなかったモネは一時は国家への寄贈を取りやめようとさえ思ったが、クレマンソーはモネに対し「あなたのために国家は多額の出費をした。あなたには寄贈を取りやめるという選択肢はない」との書簡を送った。モネは死の直前までこの大作に筆を入れ続けた。そして「作品の展示は自分の死後にしてもらう」という条件だけは断固として貫いたのである。モネは1926年12月5日、86年の生涯を閉じ、『睡蓮』の大壁画は翌1927年、正式にフランス国家に寄贈された。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
クロード・モネの睡蓮の池と日本の橋という作品はとてもいいですね。

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